昭和46年05月06日 夜の御理解



 真心とは、神様に喜んで頂く心とは解かっていても、あの、真心が中々使えん。真心どころか、それとは反対に、こう云う心で神様が受けられるなら、こう云う事では自分自身も助からないと云う様に思うても、そう云う所が自分の心だと言うんですね。まあ私そう云うのを、心のやはり重大患者と云うふうに思うんですが、合楽にはそれが非常に多いんですね。もう昨日まではあんなに神様が有り難い、有り難いと言うて居った人が、パッともう私が有り難くなくなってしまって、居りましたがね。
 やはりこりゃもう、大変な一つの心の重体ですよ。ですからちょっと自分自身が本当に心の、病者または不具者と。自分で自覚させてもろうて、本気で自分の心の、完全な願いを立てて、本気で信心修行させて頂かなければでけん。自分で自分の心がどうでも、どうする事も出来ない。ですからね、是はもう、是をカバーするのはもう、本気であたくし共が信心修行に打ち込む以外にないし、是は一人だけのね、あのもんもんとしておるとか、腹が立ったから出来ないとかと言えば、周囲の者が居られんのですよ。
 そう云う心の不具者が、その中にありましてね、ですから是れは自身も助からないがその周囲の者も助からない。銘々が本気で所謂まあ金光大神とはと云うよりも、私は和賀心とは、もうどちらへ転んでも、喜べるこの心が和賀心だと云うふうに思うんですけどね。金光大神の境地だと云れておりますが、そういう完全無欠とは中々出来んにしましても、とにかく自他共に、楽に成れれる心の状態を目指さし解かっておる。
 真心とは、神様が喜んで下さる心と、解かって居るけれど、むしろ神様と喜んで下さる所の神様は、悲しみなさるだと思う様な心が、次から次へと出てきて、自分を苦しい人を苦しみ致しませんですね。自分自身の事でもあるですけれども、これだけそう云う中に私が入った場合、そう云う今日もある方が、またそう云う何かが起こったというて、私だから、そういう時に私はどう云う状態になったらいいんだろうかと、いうことに対してから、お願いさせてもろうたら、ね、乾物を頂くんですね。
 いわゆるこちらの心が生き生きとしとかなければ出来るこっちゃない。心が、どんなに形の上に立派に出来ておっても、心に期する事がないなら、私、自分までそれに引き込まれてしまう。だから、それよりも、これよりも、相手の人じゃない。自分自身が、それを包容していけれるというか、喜び受けて行けれる心を頂く以外にないなと思いました事ですけれどもね。やはり修行です。
 今日は栄四郎の学校がお休みで御座いましてから、この夏物の買いたいから兄ちゃんを誘ったわけです。幹三郎は「何か買うもんあんの」っちゆったら「僕はなぁにん買わんでよか」、結局栄四郎の買い物にまあ幹三郎は借り出されたわけなんですね今日ね。それで私が、「ならどういう物を、シャツやらズボンやら、の様なものと云うからでしたら五千円ばっかり持って行ったらよかろう」申して居りましたら丁度、五千円ばかりのきっちり五千円、五百何十円かのだけの買い物をして来とりました。
 そして帰って「どげなんもんこうてきたか」というてから、開いてみて着て見た所が、どれも是もがあわんのです。して結局は幹三郎がみんな「僕はいらんばってん」っちからでしょうか。是がちょうどきっちりして、だからもう信心修行するもんには勝たんねって言って笑ったとこですけどね。しかしこれは笑い事じゃなか。本気で修行する者には勝ちませんです。もう神様はいらんっちゆうたっちゃ下さるのです。
 ですから喜ぶとも同じことです。本気で信心しよりゃね、もう、喜びしか下さらんとですよ。信心が枯れて来る所にです、例えば相手の心よりかこちらへまでも、反映してくる、苦しみにならないで、結果が生まれて来るんです。今日の私の御理解は、お互いがまず自分で自分の心がどうにもならん、もてあますような時もあります。だからそう云う時に、自分の心の不具者であるという事実を突き止めて、ね、其処の所に取り組んで、おかげを頂いていかなきゃならんと同時に、周囲がそうである場合、ね。
 それを受ける心は、もう生きた修行、生きた喜び。本気で信心の稽古をさせて頂こうと言った様な修行精神以外にないのです。でないと自分まで巻き込まれてしまわなきゃならん。だから、本気で修行させて頂く者には勝たんと私はこう思うんですけども。それを神様が、与えて下さるものは、いらんと云うものでも、喜びは与えて下さるものですよね。幹三郎と栄四郎のこと。買い物の中からそう云う物を感じましたですね。
   どうぞ。